坂本眞一「イノサン」
18世紀フランス・パリ。死刑執行人の人生の葛藤を描く
イノサンは英語Innocentのフランス語読み。Innocent:形容詞。無実の、潔白な、純潔の意。
舞台は18世紀のフランス・パリ。フランス革命以前には職業選択の自由はなかった。身分制度から抜け出す事は出来ない。世襲制により親の職業=家業を継ぐ事しか選択肢はない。生まれ持った運命に従うしか、生きて行く術はない。
貴族の子は貴族に、商人の子は商人に、農民の子は農民に、処刑人の子は処刑人に。
国家の、国王の命により死刑執行人を務めるサンソン家の4代目、国王ルイ16世の斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンが主人公の、歴史に翻弄されながらも生きた数奇な物語である。
耽美、数奇、処刑、拷問、解剖、グロ、エロ、ナンセンス、ソドミー、葛藤、苦悩、歴史の裏側、人間の影の側面、狂気と闇、貧困、理不尽な現実を深くえぐり描いている。
漫画なのか絵画なのか。緻密で圧倒される画力で描かれる漫画、イノサンはiPadを使いデジタルで描かれている。
原案は安達正勝著「死刑執行人サンソン ―国王ルイ16世の首を刎ねた男 」集英社新書を基にしている。
この町の処刑人は市街地に住むことが許されなかった。町はずれの一軒家に住み、そこが死刑人の家だということがだれにでもすぐわかるように、家全体が赤く塗られていた。娘がいる場合は、家の正面にその旨の提示をしなければならなかった。普通の家の息子が間違えて処刑人の娘と結婚することがないように。
安達正勝著「死刑執行人サンソン」より引用
1巻第1章のサブタイトル「紅き純真」はここから取ったのでしょう。そして2章「その家は血のごとき朱(あか)に塗りこめられていた」に続く。
初代サンソンが死刑執行人の娘と恋に堕ち、死刑執行人としての生き様と葛藤は、イノサンルージュ2巻に描かれている。
ミュージカルとして舞台化もされ、公演は2019年11月29日から翌12月10日まで。チケットは7月20日から発売が始まっている。
単行本になったイノサンは9巻までだが、イノサンルージュとして続編がある。
18世紀フランス
産業革命以前のヨーロッパにおける市民の生活は、贅を極めた貴族と人口の大部分を占める一般市民の窮迫した暮らし、極めて対照的な生活と文化が混在し、その両者は決して交わることはなく、越えがたい溝が存在していた。
貴族や大金持ちが4頭立ての馬車で闊歩する一方で、貧困に喘ぎパンも満足に食べられない圧倒的多数の庶民。絶望と快楽が混在する18世紀のパリがその舞台になっている。
作品中に庶民がパンを求める姿が度々描かれている。中世からこの時代にかけての庶民の食事はパンだけ。肉や野菜、果物などはほとんど口にすることは出来なかった。
そのため平均寿命は短く、疫病の流行や栄養失調で亡くなる子供も多かった。
当時のフランスは、王族や貴族たちの豪華絢爛な宮廷文化の裏側で、アンシャン・レジームと呼ばれる厳格な身分制度によって、多くの市民が極貧生活を強いられた不平等の時代。
軍事費の増大と宮廷の浪費により、国家は深刻な財政難にも陥っていた。
またこの時代、罪人に対する処刑は市中の広場などで公然と公開されていた。これは市民に対する見せしめであると同時に、見世物としての娯楽エンターテイメントの機能も果たしていた。
音楽の世界でも、この貴族社会の時代にバッハ、モーツァルト、ベートーベンなど、今でいうクラシック音楽が花開く。モーツァルトはイノサンにも登場する。
しかしクラシック音楽は決して高貴なものではなく、ことにオペラなど俗な側面もある。
去勢歌手カストラートは、その最たるものかもしれない。また、シャルル・アンリ・サンソンは作中で楽器職人からバッハの曲を習っている。
J.S.バッハ・・・数年前に死んだ名もないプロイセン協会のオルガン奏者の作品に僕は何故か惹きつけられる・・・
日本では音楽の父とされているバッハであるが、在命中は作曲家としては評価されておらず、国際的に活躍したその息子たちの父親として知られる存在に過ぎなかった。バッハは2度の結婚をし、20人の子供をもうけている。
フランス革命は18世紀後半の1789年~1799年。絶対君主制と封建制度が崩壊し、新たな近代国家体制を築くきっかけとなった市民革命である。
革命のスローガン「自由、平等、友愛(博愛)」が正式にフランスの国家標語となったのは、19世紀末の第3共和国制になってからである。
江戸時代日本の士農工商に相当するフランス革命以前の身分制度アンシャン・レジーム。第1身分の聖職者、第2身分の貴族、第3身分の平民に分類され、聖職者+貴族と第3身分の平民の人口比率は2:98。
およそ50人弱の平民が1人の貴族のために納税する図式となっていた。聖職者と貴族には免税特権が認められていたにもかかわらず、年金の支給も約束されていた。
この漫画でも描かれているように、当時のフランスは軍事費の増大や農作物の凶作などが原因で深刻な財政難に陥っており、その穴埋めは増税によって賄われていた。
結果、平民は益々貧しくなっていってしまう負のスパイラルから抜け出せず、市民の不満は高まっていった。
しかし、革命後フランスはナポレオンによる軍事独裁政権の時代に突入していく。王政を倒しても平和と民主主義は訪れなかった。
死刑執行人の身分は最下層の賎民であり、市民から蔑まれる職業であった。また、人体に熟知し、医師として副業も行っていた。サンソン家3代目の時代から国から高額の年棒が支給され、生活は貴族並みで豊かであった。
1791年フランス革命政府は、ソドミーは犯罪ではないという、同性愛は罪ではないと認める法を欧州で初めて制定した。
イノサン:葛藤と苦悩と純潔と
神父の家庭教師の教育もあり、繊細で心優しく死刑反対論者であったシャルル・アンリ・サンソン。「僕は処刑人なんかになりたくない!」そして父から洗脳の為に拷問を受ける。
サンソン家初代シャルル・サンソン・ド・ロンヴァルは軍人であった。そして処刑人の娘であるマルグリット・ジュエンヌと恋仲となる。
身分の違う者同士の交際を知ったマルグリット・ジュエンヌの父は娘を拷問にかけ、その回想シーンがクロスオーバーする。
その後初代サンソンは賎民に堕ちるのもいとわず、マルグリットと結婚し処刑人となる。
死刑執行人サンソン家の歴史が、この時から始まる。(動画ではカットされている。1巻P55回想シーン)
この回想シーンは、解説が無いので理解しにくいと思う。安達正勝著「死刑執行人サンソン」を読んでおけということか。
僕は孤高の人での回想シーンはついていけたけれど、さすがにこの1巻P55の回想は安達正勝著「死刑執行人サンソン」を後日読むまで理解できなかった。
後にこの回想シーンはイノサンルージュ2巻で描かれている。
生まれながらに定められた運命に抵抗しながらも、逆らえず時に染まっていくシャルル。友人すら処刑しなければいけない理不尽な運命。
強制、抑圧、権力、欲望、矛盾、葛藤、人間の尊厳と自由、意思。
4代目サンソンは、どのように生き、そして成長していくのか?現実と運命を受け止めながら、シャルルはどのように変わっていくのか。
たった1人の友達を救う事もできず、僕にはもう生きる価値すらもない・・・
パリの外では、こんなにも人が苦しんで生きているなんて。今まで自分だけが苦しいと思い込んでいた、自分自身が恥ずかしい。
どうせ事実なんてものは、権力で都合よく捻じ曲げられてしまう
この得体の知れない不安感は何だ・・・?まるで僕一人だけが真っ暗な穴に迷い込んでいくような・・・
僕が誰かを守りたいたいなんて望みを持つことがいびつなのかもしれない・・・
僕がもし、このような星の下に生まれ、こんな運命を背負わされてしまったら・・・精神崩壊するかもしれない。自我を保てないだろう。
歴史の歪みに生きた1人の人間にスポットを当てた、緻密に描かれた傑作漫画だと思う。
紹介したYoutube動画では端折られている場面もあるので、やはり単行本で読んで欲しい。
2人のマリー
マリー・アントワネットとマリー・ジョセフ・サンソンの2人の生き様も見どころ。画力は定評のある所だけれども、マリー・ジョセフ・サンソンの眼だけでも、彼女のそのときの心理状態が読者に伝わる。
マリー・アントワネットの首飾り事件などは、インターネット上での炎上と相通じるものがあると思う。いつの時代でも人間の感情は変わらないところもあるのかもしれない。
7巻に若き日のマリー・アントワネットの野グソシーンが描かれている。トイレなるものが無かった当時はこれが当たり前であった。豪華絢爛を極めたベルサイユ宮殿にもトイレは無い。
独立した個室トイレではなく、現代で言うオマルのような便器を部屋に置いて使っていたようですが。その後は中庭にポイ捨てで処理w
権力、欲望、綺語、両舌、妄語・・・自らの欲と権力のために言葉を飾り相手を欺く、歪んだ時代に自由を求めて喘ぎ彷徨う2人のマリー。
イノサンルージュに続く。
坂本眞一「孤高の人」も宜しくです。
最後に
決して景気も良くない。消費税増税。働き方改革の負の側面。終身雇用制度の崩壊。時代背景は異なるけれ、今の日本にも、フランス革命時代の市民と共通点はあるように思う。
時代の節目なのだろうけれど、希望に満ちた未来が開けている訳ではない。閉塞感を感じている人が増えていると思います。
未来や希望は自らの力で創り出していかなければならないのは、いつの時代でも共通なのだろうか。
Googleバーチャルツアーでベルサイユ宮殿を散策
知は力なり
Googleに凄いコンテンツが出来た。まだ日本語化されていないコンテンツも多いけれども、これはGoogle博物館と言えるかもしれません。
エプソン・アートプリント展 坂本眞一「イノサン・パリ/革命の筆触」
エプソンスクエア丸の内エプサイトギャラリーで2019年11月16日(土)~12月11日(水)までアートプリント展 坂本眞一「イノサン『パリ/革命の筆触』」が開催されます。
入館は無料
●開催場所:エプソンスクエア丸の内 エプサイトギャラリー
住所:東京都千代田区丸の内3-4-1 新国際ビル1F
●開催日時:2019年11月16日(土)~12月11日(水)10:00~18:00
●休館日:日曜日、会期中の祝日、11月23日(土)は開館
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