栗城史多さんのこと|写真家 三井昌志氏のブログ
写真家三井昌志氏のことは、山写氏の一連の疑惑で知った。山写氏はTwitterで活発に活動していたため、その流れで三井昌志氏のツイートが目に留まったことがきっかけになります。
栗城史多さんのこと|写真家 三井昌志氏のブログを読んで
「山写」という山岳カメラマン@Photograph_mt の登山歴が嘘っぱちだったと話題になっていた(のを今ごろになって知った)。山写氏のブログは以前に何度か見たことがあって、風景写真の現像技術も含めてたいしたもんだなぁと単純に感心していたんだけど、まさか写真界のショーンKだったとは。
— 三井昌志 (@MitsuiMasashi) March 14, 2020
この山写氏に関するツイートが目に留まった事がきっかけ。その後に嘘繋がりで栗城史多さんにも言及しブログも執筆。
一連のツイートと三井昌志氏のブログ記事を先ずはお読みください。全てが頷けることばかりです。
リツイートにあるコメントにも頷けるものが多かった。感銘を受けたくらいに的確な文章が多かった。
しみじみ。嘘つきは魅力的な人が多いのよ。人懐っこくて自信家で、でもちょっと抜けてて人間くさい。だから信じてしまうのよね。私もすぐ人を信じるから騙される自信がある。大事なのは、違和感を持ったら立ち止まること。
— ごんた (@Gonta_Croquette) March 17, 2020
栗城史多さんのこと https://t.co/orFuWT8cTt@MitsuiMasashiから
“栗城さんは決して計算高い人、ずる賢い人ではなかった…ある意味ではとてもルーズな人なんですよね。最後の数年は、話の辻褄を合わせる努力すら放棄していた。そういうダメっぷりがとても人間くさいなぁと…” / “栗城史多さんのこと | たびそら 写真家・三井昌志” https://t.co/JAf1GvMMgy
— ゆうくぼ (@yu_kubo) March 18, 2020
栗城さんのことを「凡人のヒーロー」と例えていた人もいたが、人間臭いからこそ惹かれてしまう人がいるのだろうか。
“応援していた人が嘘つきだったと認めるのは辛い。「認知的不協和」と呼ばれる不快な状態に置かれたとき、詐欺師の嘘を認めるのではなく、その嘘を糾弾する側を非難することで不快感を解消しようとするのは、実によくある行動だ"
— 村中貴士@編集ライター (@LR445) March 17, 2020
栗城史多さんのこと https://t.co/7nXW83RNSG@MitsuiMasashiより
栗城史多さんの検証、考察について
三井昌志氏も推薦する栗城史多検証、考察サイトを紹介します。
栗城史多まとめ @ ウィキ
登山全工程、過去の発言、スポンサー歴、迷言集、登山家の栗城評など、栗城史多さんに関してのあらゆる情報が網羅されている。
栗城史多という不思議|森山編集所
ブログ記事公開から栗城史多さんが亡くなって世間が落ち着くまで、とにかく話題に上がっていた記事。
栗城史多さん、山写さん、そしてSNS界隈での儲け話やインフルエンサーの言葉に吸い寄せられてしまう人は後を絶たない。歴史は繰り返す。
僕はノンフィクションの世界に、フィクションが意図的に混ぜられただけで、信用を失うのではないかと考える。
だから話を盛る=嘘が混じると、そしてその嘘が繰り返されると、そのような人を信用はできなくなる。
そもそもフィクションが混じっているのだから、発言の信憑性がない訳です。
セールスライティングが上手だったりマインドセットwの発信と、登山家としての実力の評価は全く別に考えないといけない。
栗城史多さんを評価している人は、これをごっちゃにしている。
批判を否定として認識してしまい、認知の歪みをコミュニティの結束に利用するのは、後述するインフルエンサー界隈と同様の構図。
「“賛否両論の登山家”栗城史多さんとは何者だったのか」を読んで
森山編集所“賛否両論の登山家”栗城史多さんとは何者だったのか(2018年5月28日)
森山憲一さんは、記事の最後に
日本はその点、真実よりも、わかりやすさや人気を優先させてしまうところがあります。多くの場合、それは現実的な選択であり、それによって問題が起こることはあまりないのですが、歪んだものの見方であることは変わりない。その歪みが、悲劇につながることもある。歪みはやはり歪みなのだ。そのことに気づけたことが、今回の事故から得ることができた、私にとっての教訓です。
と締めくくっています。
SNSで情報を発信し、精力的に講演活動をしていた栗城さんは”わかりやすく人気の出やすい”登山家でしょう。
講演会を開催している賛同者やスポンサーの視点で見ると、講演会に一定数客を呼べて、会費を払うファンクラブ会員が一定数以上いる。
SNSのフォロワーが一定数以上いる栗城さんは、お付き合いしておけば、自分の講演や合同での講演会にも客を呼べる目途が立つ訳です。
講演活動に客を呼ぶ同志として、栗城史多さんはお付き合いしておくべきオイシイ人だったのだと思うのです。
また、サッカーの岡田武史元日本代表監督が「日本人は機能と感情をごっちゃにしてしまう。」と、ロシア・ワールドカップ後のインタビューで語っています。
理論で分析していくのではなくて、感情で判断してしまうんですね。
「勇気をもらった」「前向きになれた」⇒だから良い人、となってしまう。
栗城史多さんのTwitterアカウント
エベレストで亡くなってから2年が経過するも、Twotterのアカウントは残っている。
没後2年が経過するも、いまだに栗城さんのフォロワーが10万アカウント以上もいる。
購入したbotアカウントのフォロワーが、どれだけあるかを調べるオンラインツールがある。
これを使って、栗城さんのTwitterアカウントを調べてみた。
フォロワーの43%がフェイクとでました。
「山写」なる人物のこと
森山憲一さんの山写氏についてのブログ記事。実際に山写氏のセミナーにも参加したことがあったのには驚き。
山写氏も一言早い段階で「ごめんなさい」して、「こことここは話を盛ってしまいました」と言っておけば、許される可能性もあったのではないか。
ちなみにTwitter内で山写氏の話題などを検索したりするのにハッシュタグは使わない。栗城史多さんに関する検索も同様です。
最後に
インフルエンサーが発信する自己啓発的な〇〇論。TwitterやYoutube動画で活発に行われている。
発言に矛盾があったり、情報操作的な部分も無きにしも非ずだ。しかしそれを心地よく感じて多くの人が吸い寄せられている。
その人たちは成功を求めている訳ではなく、楽して儲けようとしているに過ぎない。その先に成功はない。
とまで言っている人もいる。僕もそう思う。
Twitterでは悪行を行った人間に対し批判が殺到すると『マトモな人ほど距離を取り、批判された人と同じ思考の人は擁護に走る』という性質がある。つまり問題が起きれば起きるほどヤバい人だけ擁護をして残っていくので、結果コミニュティ(界隈)の異質さは加速していく。まさに現代の蠱毒。
— 元情報商材屋 (@shozaiya) April 10, 2020
これはTwitterに限った話ではない。
認知的不協和と呼ぶ人間の心理に基づく現象です。自分は間違った判断をしたと思いたくないが故に。
そして擁護に走ってしまいます。
一流のプロ野球選手になって稼ぐ方法。筋道や方法論はありますよね。でも誰でもなれる訳ではない。
辿り着けるのはほんのひとにぎり。
実力不足、能力不足、努力不足、練習不足、素質はありながらも不慮の怪我で諦めざるを得ない人もいるかもしれない。
誰でも出来るように錯覚させて、話を聞かせて信者化しているように思えてならない。
「ブログで稼ぐ」「Youtubeで稼ぐ」「SNSで稼ぐ」「プログラミングで稼ぐ」などなど。
一定のレベル以上にならないと、プロにはなれないと思うのだけれど。
中島誠之助「ニセモノはなぜ、人を騙すのか?」に書いたけれど、語りの手口は昔から変わらない。
皆さんはどのように考えますか?
フォロワーを思考停止の脳死状態にさせる自己啓発系インフルエンサーの後追いをするよりも、きちんとしたビジネス書を読む方が良いです。
わかった気分になって感情で捉えて終わるか、教養として自分の血肉となり身に入るのか。
選択権は自分自身の中にあるのです。
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