クラシック音楽と登山1

2019年2月28日

極彩色のパレットから生み出されるカラヤンの音楽は、完璧で抗いがたい魅力がある一方、人工的で作り物めいた白々しさが存在している。

カラヤンのわかりやすさは聴き手の精神的自律を休眠状態に陥らせる。

資本主義、拝金主義、現代肯定主義、クラシック音楽を高尚とする、あまりに単純で軽薄な価値観。

音楽を耳の快楽、感覚の喜び、と捉える向きには、カラヤンの音楽は最上のアミューズメント。

しかしここで、ほんの少しの時間で良いから踏みとどまって考えて欲しい。

音楽はそれ以上に、思考を揺さぶるもの。

音楽は悟性の喜びでもあり得る。認識の歓喜でもあり得る。音楽を聴くことによって、世界とは、人類とは、個人とは、芸術とは、文化とは、或いは幸せとは、不幸とは、絶望とは、苦しみとは何か、ということを考える契機を手にすることもできるのである。

宮下誠「カラヤンがクラシックを殺した」

カラヤンの演奏は、著者同様に僕も好みではない。著者もカラヤンを晒すことが目的ではなく、「時代の象徴として」「芸術や文化とは何かと思考するきっかけとして」カラヤンを取り上げているのだと思う。

あまりにも完璧すぎる演出。徹底した美学と強烈なカリスマ性。権力による支配。時代もカラヤンの味方になった。

モノラル録音からスレレオへ。レコードがらCDへ。音だけの時代から映像の時代へ。そして、経済の成長や発展と同期し巨大化していく。カラヤンの方法論、美学や権力と置き換えても良いが、それを成立させるためには、良い音楽を作る必要性を認め、その資金提供をする企業や公共団体が常に存在していることが前提条件になっている。イエスマンのパトロンが必要なのだ。

音楽エージェントCAMI(コロンビア・アーティスツ・マネージメントInc.)やレコード会社との関係。SONYもカラヤンに擦り寄っていった。カラヤンは時代の象徴であり、カラヤン1人の問題でも責任でもないと思う。

経済や金銭の観点だけを切り取るならば、クラシック音楽はいつの時代でも、常にパトロンを必要としていた。1990年代には既に、音楽産業のうちの僅か5%に過ぎないところまで落ち込んでしまった。

芸術や文化と産業や経済の成長と思惑が一致して、シンクロしていた時代。その時代が崩壊してしまった今、何をどうすればいいのだろう?

ヒマラヤの山々が未踏峰だった時代、国家の威信にかけて大規模な遠征隊を組織し、初登頂を競っていた時代と似ている。市場規模の異なる登山には、エージェントの旨味は発生しないけれども、資金援助が無ければ成り立たない極地法の遠征と類似点がある。

巨匠と呼ばれる音楽家や大規模遠征隊が、世の中全体に受け入れられていた時代が終わり、アマチュアは余暇や趣味として、プロは最小限の費用で収まる、アルパインスタイルやボルダリング等に変遷を遂げた登山の世界。

アマチュアは楽しければ、それで構わないと思う。でもプロにとってはどちらも難しい世界になってしまったのかな、とも思う。高度経済成長が終わりバブル崩壊で、文化や芸術にまで波及してしまうって・・・資本主義の世の中はそんなもんだ、と言ったらそれまでだけど、何かおかしいな。

The Story of Decca Records