木之下晃 「朝比奈隆 長生きこそ、最高の芸術」

2019年3月11日

長年に渡り指揮者朝比奈隆を追い続けた、写真家木之下晃氏の著書。氏の撮影した素晴らしい「一瞬を切り取られた写真」と共に、数多くのエピソードが収められています。

朝比奈隆―長生きこそ、最高の芸術

指揮者と写真家

個人的な音楽の好みで、日本人の指揮者や演奏家の演奏は、正直あまり聴きません。しかし、朝比奈隆は生き様も含めて別格に感じるものがあるのです。

著者は中日新聞社を経て博報堂に勤務し、撮影の仕事に日々忙しく取り組んでいた。日本経済は高度成長を謳歌し、広告の世界は活況を呈していた。仕事にやりがいを感じる一方、撮りっぱなしで消費されていく広告業界の一面に、どこか虚しさも募っていた。

そんな中、1970年にプライベートで撮り貯めていた、好きだった音楽に関わる写真を写真集「音と人との対話ー音楽家」に纏めて自費出版する。費用は家を買うために頭金にする予定の貯金を取り崩して。以後、著者は持ち家が無く、賃貸の公団住宅住まいとなる。

そして1973年37歳の時に、消費されていく写真ではなく「残る写真」を撮りたくて、会社を辞めフリーランスのカメラマンになる。ギャラは広告業界のそれと比較して、2桁も安くなってしまったそうです。

朝比奈隆の専属カメラマンへ

当初は被写体の1人に過ぎなかった朝比奈隆が、著者の写真をことのほか気に入り「オフィシャルの写真として使いたい。」と直接連絡したことがきっかけとなり、物語が始まる。LPジャケット、レコード会社やコンサートのポスター、海外へ送るプロフィール写真、朝比奈隆の意向で全て木之下晃の写真が使われていく事になる。

「木之下君、君と主治医の歯医者には、僕より先に死なれては困るよ。」

「木之下君には何を写してもいいといってあるから。」

以後、コンサートの舞台に留まらず、控室やプライベートの生活も含めて「指揮者 朝比奈隆」に留まらない「人間 朝比奈隆」の「残る写真」が記録されていくこととなる。

朝比奈隆の年輪が1枚の写真に収められていく。その演奏や録音と同じように・・・

知性と教養、品格と人格を備えた朝比奈隆

朝比奈隆は旧制東京高等学校高等科在学中にバイオリンを覚え、サッカー、乗馬、陸上、登山、スキー、様々なスポーツに取り組んでいた一方、文学、哲学、語学、映画、歌舞伎、落語、料理に至るまで・・・あらゆる学問や文化に興味を持って吸収していく。「メッテルの元でバイオリンを弾きたい」がために京都帝国大学(現京都大学)法学部に進学。卒業後に2年間阪急電鉄に勤務後、退社してから改めて京都帝国大学文学部哲学科に再入学。

当時秀才中の秀才が集まる旧制東京高等学校高等科は、志望校を東京帝国大学又は京都帝国大学と書くだけで、志望大学に進学できたそうです。

このときに学び吸収したものが栄養となって、朝比奈隆の音楽の深みに繋がっていると思う。様々な事に興味を持つけれど、何一つものになっていない底の浅い僕とは大違い。比較することすらおこがましいのです。

朝比奈さんから旧制東京高校のリベラルな校風を常々聞かされていた木之下さんは、思い切って旧制東京高校の同窓会を開いてほしいと依頼する。1989年に銀座の料亭で催された同窓会に集まった顔ぶれは・・・

日本を代表する大企業の役員がズラリ・・・当時80歳を過ぎても現役で日本経済を牽引する人たち、現役を退いている人は元官僚か元外交官。別室には秘書が控え、料亭の外には黒塗りの高級車が連なって停まっている。
その中に駐西ドイツ大使だったピアニスト内田光子の父もいる。

軽~く現京都大学に入れる明晰な頭脳を持ち、現代のように浮ついたセルフブランディングに走らずとも、異業種交流会だの催さなくても、財界政界に太い人脈が自然に築かれる事になる。ドレスコードをきちんと守るダンディズムを貫いた、本物の知識人、文化人であった。

23分間にも及ぶ拍手が鳴り止まないスタンディングオベーション。「一般参賀」とまで言われた聴衆の反応。入手難となるコンサートチケット。亡くなる2001年末までの55年間の永きに渡り、大阪フィルハーモーニー交響楽団を音楽的にも、財政的にも維持し率いていった。

「音楽学校を出ていない素人」「不器用で偉大なアマチュア」一部から批判は出ていたが、その演奏には技術が全てではない奥行きと深さがあった。品格、人格、知性、教養・・・人間性がそのままブルックナーの交響曲に現れている。

こんな指揮者は今後、2度と世に出て来ることはないだろう。

朝比奈隆のCDを聴く。

木之下晃の写真を鑑賞する。

僕にとって両者は同義なのです。

年輪を重ねる程に、深みを増していく指揮者朝比奈隆と、人間朝比奈隆を追い続けた写真家の木之下晃。朝比奈隆やカラヤンを始め、指揮者や音楽家を主な被写体にしていた写真家木之下晃は、2015年1月12日虚血性心不全のため永眠。享年78歳。

横暴でわがままの極みカラヤン来日の際に、スチールカメラマンとして只1人撮影を許可された木之下晃がマエストロ朝比奈隆を語る。