続『デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』

2021年1月18日

デス・ゾーン栗城史多のエベレスト劇場

初版発売から約2か月が経過して、著者の河野啓さんのインタビューや本書の感想などが出揃ってきました。

改めて『デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』について想うところを書いていきたい。

前回の記事は発売直後だったので、ネタバレ感もありましたが遠慮気味に書いていました。

BE-PAL 2021年2月号

BE-PAL 2021年2月号に森山憲一さんによる著者河野啓さんのインタビュー記事が掲載されました。

BE-PAL2021年2月号

インタビュー記事は2ページ程だったのですが、その中で気になった点をいくつか

「作る番組はろくでもないのに、企画会議の場では雄弁なやつが、テレビの現場ではいるんですよ」河野啓

BE-PAL2021年2月号より

これはテレビの現場や栗城史多さんに限った話ではない。多かれ少なかれどこにでも、このようなタイプの人がいます。

弁の立つ人を一概に否定してしまうのはもちろん良いことではありません。意見をまとめたり、集団を一つの方向に一致団結させ、パフォーマンスを上げていくのに時には必要なこと。

しかし、その弁に発信者の自己都合による嘘や虚栄があってはいけないと思う。

SNSでもインフルエンサーになりたい人が数限りなく存在していて、栗城史多さん的な情報発信がそこかしこに見受けられます。

何者かになりたい。

賞賛される特別な存在でいたい。

人より凄い存在でいたい。

虚栄心や自己顕示欲が誠実さに勝ってしまっている人達が。称賛されるためなら手段を選ばない人達。

学歴や経歴を詐称したり、開始半年で収益6桁、著名人の名言を意識高い系ツイートとして焼き直し・・・etc

自己の利益であったり、フォロワー獲得信者獲得が目的なので、その発言は浅く薄い。オンライサロンなどは、そのような集団形成に都合の良い場所になってしまっている。

全てのオンラインサロンを悪と決めつけている訳ではありませんが、雄弁さや話術の上手さと発言内容の正確性や良し悪しは分けて考えるべきです。

目標を持ち夢を語るのは結構なこと。しかし共感者を集めて販売や収益を上げることを目的としながらも、夢というオブラートに包み、信者獲得が目的になってしまっている。
手段が目的になってしまっているのだ。

「批判のない応援し合える社会」を夢に掲げていた栗城さん。

それは『栗城さん自身が賞賛される集合体」に他ならない。批判者を敵と見なせば、賛同者の結束はより固まっていく。

集団の結束を固めるためには『敵』も必要なのだ。

「今回取材に応えていただけなかった方にも、その人たちが見た栗城史多さんを発信してほしい」河野啓

BE-PAL2021年2月号より

これはとても賛同できる意見でした。

2018年最後の遠征に同行したスタッフ、協賛していたスポンサー、栗城史多事務所、講演会やイベントで協力関係にあった人たち、生前インタビューや対談をしていた方…etc

特に登山の現場から離れたところで、栗城史多さんと親密だった方からの栗城史多像は、是非とも伺ってみたいところです。

一部の人には勇気を与えていたインフルエンサーとしての栗城史多さん。

服部文祥さんが言っているように、栗城史多さんは登山家ではなかった。インフルエンサーとしての栗城史多さんを関係者からの意見を伺いたいです。

生き生きと輝いていた栗城史多さんに、徐々に影が感じられるようになっていった。

諭す人はいなかったのだろうか?止める人はいなかったのだろうか?

動画で同行カメラマンが諭すような発言はしていましたが、栗城史多さんは変わらなかった。

否定の壁への挑戦

否定の壁へ挑戦して、励まし合い共感し合って栗城さん自身は、肝心の登山の実力や判断力は向上したのか?成長したのか?

答えはNoである。

トレーニングが絶対的に不足している。

基礎トレーニングを怠り「如何に見せるか(魅せるか)」しか考えていない。

事務所から詳細な事故報告書が発表されていないので、限られた情報の報道と発表から判断せざるを得ませんが、体調不良が切羽詰まっていたらしいとは言え、夜間の下山しかもヘッドランプの電池切れでそのまま下山を続けるとは、、、

判断力も未熟と言わざるを得ません。

前向きな気持ちだけでは肝心なことが身に付かない。

何かに取り組むのであれば、挑戦するのであれば、

やる気を起こしたら、その次のステップとして、自己の殻を破って1歩を超える知恵や知識の吸収。学習や経験の蓄積。

勇気だけで1歩を超えても、、、それだけでは、、、そこに成長は無いと思うのです。

北海道のTVマンが記した「デス・ゾーン」の真意

開高健ノンフィクション賞・河野啓氏に聞く|東洋経済ON LINE インタビューライター朝山実氏

著者河野啓さんのインタビュー記事の中でも、文章量も多く掘り下げられた記事に好感が持てました。

しかし著者が栗城史多さんから離れていた間のウォッチャーの1人として、どうしても言っておきたいこと。

その「単独」を目指せない人間がネットに群がって、人を叩いているというイメージを同時にもったんです。
自分のない人間が、いま叩かれている人の情報を知り「歪んだ正義感」をもって攻撃をしかけていく。
逆説的ですが、栗城さんはそういうことはしなかった。
攻撃された相手に言い返すというのはしょっちゅうやっていたけれども、すくなくとも僕が知る限り、自分から叩きにいくということを彼はしなかった。

開高健ノンフィクション賞・河野啓氏に聞く|東洋経済ON LINE

栗城史多さんは自己正当化と自分を大きく見せ演出するために、自分から相手を叩きに行く発言は行っていました。

2010年秋のエベレスト遠征

栗城史多さんと同時期に遠征していたアメリカ隊が登頂した後に、Twitterで「アメリカ隊の登頂は捏造」とツイート。 その後、そのツイートを消し何の訂正も行わずに沈黙。

※米国エリック・ラーセン隊の登頂はヒマラヤンデータベースで正式に公認されています。

なすびさんエベレスト登頂

「僕のエベレストとなすびさんのエベレストは違う」と発言

なすびさんのエベレスト登頂は単独無酸素ではない。過酷さ厳しさ難しさが違うとの意。
しかしこれは、栗城史多さん自身のエベレスト登山も単独無酸素ではなかったこと。
なすびさんは地元福島の復興支援という目標を持って、何よりエベレストに登頂を果たしました。
ガイドやシェルパのサポートや酸素ボンベを使っていたとしても、登山家ではない一般人が登頂を果たしたのは素晴らしいことです。

自分から叩きに行った事とは趣旨が異なりますが、キリアン・ジョルネやラルフ・ドゥイモビッツに対して、さも自分も対等な登山家のような発言もしています。

実績や実力は天地の差があるのにもかかわらず。

イモトアヤコさんのマナスル登頂ネタバレ発言。イッテQテレビ放送前のネタバレツイートばかりが話題になりましたが、謎の上から目線でもありました。

自分のない人間、自信のない人間が、いま叩かれている人の情報を知り「歪んだ正義感」をもって攻撃をしかけていく。

これは栗城史多さん自身のことではないでしょうか。

自己正当化のために。自分を大きく見せるために。

攻撃だけでなく発言や演出も含めての話です。

魅せ方、演出が現実と乖離してしまった行きつく先が…

滑落死に繋がってしまったように思えてなりません。

地上の「デスゾーン」に立ち続けてしまうと…

地上のデスゾーンに踏みとどまってしまうと…

人はどうなってしまうのでしょうか。

栗木史多さん1人の問題ではないのです。

「異色の登山家」栗城史多氏をなぜ追ったのか

『デス・ゾーン栗城史多のエベレスト劇場』著者・河野啓氏インタビュー【前編】|集英社新書プラス

一時期彼の行動が空回りしてしまって、ネットで「炎上」することが増えたことがありました。記録を見ると、けなされたからつい言い返して、それでかえって大バッシングを浴びてしまったという経緯でした。

河野啓氏インタビュー【前編】|集英社新書プラス

使いたくない言葉ですけれど「アンチ」と呼ばれていた、僕を含めたウォッチャーの存在。

「凄いですね」「感動しました」「頑張ってください」「勇気をもらいました」「(敗退に)勇気ある決断です」・・・褒めるしかないファンの存在。

自己啓発系のお仲間達とスポンサー。

この異なる3者のはざまで栗城史多さんが、何を思いどのようにして変わっていったのか。

現時点では推測するしかありません。

虚業の世界で演じ続けるしか、生きる道がなくなってしまっていたとしたら

最後には自分自身を無くしてしまうのではないでしょうか。

登山、特にヒマラヤ登山はあまりにも日常からかけ離れた行為であるために、その内容の是非や正確性がわかりにくい。

支援者や共感者は「単独」や「無酸素」の嘘に気付いていたのだろうか?

いつしかストイックに山に挑戦することではなく、「挑戦する姿を演技する」ようになっていませんでしたか?

一部から「栗城さんが亡くなった後、本人が反論できないことをいいことに、このような本を出版するのは如何なものか?」と言う意見が出ています。

それに対して僕が思う事を

失敗や反省、そして批判は未来へ向けた前進に必要な対価

『炎上』や『批判』ばかりに捕らわれがちですが、SNSを中心としたネット民の大多数は、

見たいものだけを見る。都合の悪いこと、知りたくないこと、難しいことは無視をします。

これはTwitterをやっていても、とても強く感じること。

現に栗木史多ファンの多くはインターネット上での栗木史多さんを見て共感し、”いいね”を付けて講演に参加する。

インフルエンサーと呼ばれる人の多くが、その発信に誤りがあっても訂正も謝罪もなく無視をしてやり過ごす。

栗城さんも例外ではなかった。

都合の良いところだけを見て、見たくないところはスルーする。

何者かになりたい人が増えたインターネットの世界に於いて、虚構のヒーローが生まれるのは必然と言えるのかもしれない。

栗木史多さん的な人はSNSに掃いて捨てるほど存在しているのだから。

また、情報化社会なるが故に迷いやすかったり、軋轢や歪みを生みやすい人間関係に於いて、自己啓発やマインドセット的なものが求められている下地もある。

時代が生んでしまったあだ花とでもいおうか。

実力もないのになぜか人気が出てしまった一発芸人、といった比喩が相応しいと思っている。

栗城さん自身も一発芸人からの転換、無事に下りてこれたらエベレストはこれで最後にするつもりだったようです。

栗城さんと徒党を組んでいた自己啓発系の虚業師さん達にも取材が出来ていれば、また違った角度からの栗木史多さんの姿が見えてきたのかもしれない。

批判を耳にすると嫌な気持ちになる、という人の感覚は理解できます。

しかし「その批判の真偽はさておき~」としながら、批判すること自体を”批判”している人までいる。

批判はあくまでも手段であって目的ではありません。

深く検証し真実を明らかにしていく過程で批判が生まれるのだと思う。

真実や検証を置き去りにしてしまっては「浅い」「薄っぺらい」と言わざるを得ない。

栗城さんの場合は、栗城さんの遺志を受け継いだ栗城事務所から反論も可能です。本書に反論が引用されています。

事実関係を明らかにすることを拒んでしまったら感情が生まれるだけ。

苦しい辛い過程かもしれないけれども、未来へ向けて必要な何かを得るために。

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